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Quadra Eva

エヴァQ信者

バートン・フィンク

 コーエン兄弟のバートンフィンクという1991年の映画を一ヶ月ほど前に観たのでうろ覚えでテーマを解説する。

 

 詳細なあらすじは省略。 

 キーとなるのは壁紙と紙包の、紙という共通点である。この画的な類似を見落とすとよくわからないことになる。

 

 主人公のバートン・フィンクは作家で、自分こそが創作という苦悩を知っており、悲劇のまっただ中にいると思っている。そしてホテルの隣部屋のムントという太った男を、苦悩を知らない一般人として軽視し、自分の苦しみだけに耽溺し陶酔し続ける。バートンは、アル中の作家やその秘書の苦しみが、自分の苦しみより大きいとは夢にも思わない。

 終盤ムントが殺人鬼であることが判明するが、殺人の動機が一風変わっている。自分と同じように苦しんでいる人々を苦痛から解放してやっていると信じているのだ。ラストにはホテルが煉獄のように不自然に燃え始め、ムントはホテルを借りているのではなくずっと住んでいるのだと打ち明ける。

 ホテルは苦しみの象徴であり、ムントは苦痛の終生の住人だった。ムントには精神的なものはもちろん、身体的な重病さえある。苦痛ガチ勢だ。バートンは所詮、部屋を借りているだけの、苦痛に対する観光人で冷やかしに過ぎなかった。バートンはこのホテルに来るまで、あるいは来てからも、全く真の苦しみというものを知らなかった。

 ここまでは普通の解釈だが、これからは壁紙の中と外の差を考える。紙包を手にしたバートンは、急に脚本が書けるようになった。正確には紙包を机の上の見えるところに置いていることに注意したい。ホテル=壁紙が苦痛の象徴だった。しかし紙を外から見ることで、バートンは自分の苦痛を客観視出来るようになったのだ。紙包を手に入れる前は、苦痛を主観的にしか捉えられず、壁紙に囲まれ、自分が悲劇の主人公であるという感覚に囚われていた。苦痛の中にいた。苦痛を外から見ることで初めて、創作が行えるようになった。

 しかしまだバートンは成長しきっていないので、映画は終わらない。バートンが主観的に体験し、客観的に理解した苦痛はあくまで自分自身の苦痛にすぎない。秘書の女性やムントの苦痛など意識の外だ。ムントが殺すのは本当に苦しんでいる人間だけである。しかし、しっかり苦しんだはずのバートンが殺すに値しないのは何故か。それは、他人の苦しみまで理解できる人間が本当に苦しむので、そうなって初めてムントのターゲットとして認められるからだ。よって秘書もムントが殺したとしてもおかしくない。ムント自らも、解放の対象条件を満たしているので、燃え盛るホテルに消えていく。

 燃えてしまったホテルを後にして、バートンは脚本を依頼主に届ける。バートンが体験した苦痛は客観的とはいえ自分の苦痛だけだったので、傑作は書けなかった。依頼主という他人にはバートン固有の苦痛は伝わらなかった。しかし一応スランプは脱出できた。

 ラストシーンではバートンが紙包だけを携えて海辺にいる。この、謎の女性がいる海辺の風景はホテルの壁にかけてあった絵と同じだ。ホテルにいた頃のその絵は、苦痛の中での逃避を表していた。ホテルから出てしまったバートンの人生は苦痛の無い状態である。しかしバートンは、やろうと思えば紙包を開けることも出来る。苦痛をもう一度見つめることもできる。今度は、紙包に入っているのは自分の苦痛だけではない。秘書の頭という罪や、他人の苦痛まで入っているかもしれない。その苦痛に囚われてしまうなら、包紙は壁紙へ、箱は部屋へと展開し、ムントがやってくる。それまでは、紙包を糧にして脚本が書けるかもしれない。