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Quadra Eva

エヴァQ信者

シン・ゴジラ初日 レビューか考察 ネタバレあり

 

・邦画最高峰という評価は本当

 自分の中ではパシリムやギャレゴジより格段に面白い。政治性があるのはもちろん、アクションだけで見ても。何より昼間の戦闘が多いのが見やすくて幸せ。

 

※以下全部ネタバレ

 

・上陸形態

 最初は敵怪獣かな、と。徐々に園子温監督のミドリガメを思い出す。怒涛のコレジャナイ感に圧倒される。アップでは魚の死んだような目。両生類をイメージしたとのこと。深海魚のようとも。

 順当に進化していくなら、人類化する予兆がラストの尻尾のアレか。単体の完全生物をやめて群体の知的生物になってしまったら、続編は怪獣映画として成立しづらい。

 

・巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)というネーミング

 主人公達のチーム、こういう名称だったんだとパンフを見て初めてわかる。「キョサイタイ」のようなよくわからない音の部署と思って観ていた。しかしNSAとかCIAのような勢いの略称が日本語でもできるんだな、と。

 

 

シュプレヒコールの両義性

 どうも、劇中のシュプレヒコールが、聞く人の思想によって「殺せ or 倒せ」か、「守れ」に分かれるような感じ。

 わざと聞こえにくく、曖昧にしてある微妙な音量とノイズ。(not)のように両義性を持たせて議論を狙っているかも。

 

 ヘイトになるか、愛護団体的になるか。生物にヘイトはおかしいですが。

 自分は「せ」の音が聞き取れたので、「殺せ」だと思いました。恐慌と憎しみの熱狂に見えましたけど。「守れ」と聞こえた人がいるのにびっくり。

 あるいは、対抗する二つの勢力が交互に、「殺せ」「守れ」と言っていたのかもしれません。ということは、主人公たちが二値的ではない案を取る前フリと言えます。

 

・巨災対とシュプレヒコール

 演出の文脈的には、シュプレヒコールは、矢口プラン=凍結作戦の、反対であるべきです。疲労している巨災対にとって、エールになっている様子がない描写があるのは敵対的な意見だからです。(急かしているから否定でなくても不快という見方、何を言われてもスルーしているだけという見方もある)

 では、凍結作戦の反対意見とは、殺せなのか守れなのか。凍結はゴジラの殺処分を意味するのか。

 これは消極的な推測になりますが、矢口(長谷川博己)は現実的な赤坂(竹野内豊)とは違い、少し夢想的だとインタビューで言われています。矢口は一度も、ゴジラについて「倒そう」「倒せる」とは言ってないような気がします。たぶん。赤坂を含む他の人たちが、「生物ならば倒せる」と繰り返し発言している。

 何よりも、核という殺処分の極致と対置されているのが凍結作戦なら、チームの目的が「殺せ」ではないのは当然です。

 ただ重要なのは、巨災対の科学者達は、ゴジラに感情移入する気がさらさら無いことです。ただ歩いている生物の心情を推し量っても意味がない。だから、「守れ」という相手視点に立つことも不可能です。しかし生命のある生物とは思っていて、なんとか殺さずにどっか行ってもらいたいなーという距離感だけがあります。

 ここは後述するテーマに関わってきます。

 

・それでも矢口というキャラは二値的

 矢口は「敵と味方がはっきりしている」政界が性に合っていると言いながら、「敵だから殺す」に短絡しないのはなぜでしょうか。政界の事情であって、シュミットを連想するのは不適切かもしれませんが。

 実は矢口は二値的で、ゼロサムです。アスペだから、上下関係も気にせずどんどんしゃべります。人間関係に興味がないのは有能の条件です。若い女性生物学者・尾頭もです。矢口は政治というゲームの規則だけに興味があります。しかし赤坂のほうが柔軟に、そのゲームの背後にある人間同士の事情を考えることができ、出世してしまいます。

 何が言いたいかというと、矢口は二値的であるが故に、下手をすると一気にゴジラの「味方」に振れてしまう危険性があるのです。しかし、そういう「敵」「味方」の感情を政治というゲームに落とし込んでしまっているので、ゴジラに憎しみを全然持っていません。ただすごい生物だなと思っています。

 

 あと、矢口が最初に動画を見ただけでいきなり「巨大生物だ」と言い出したのは、動画の加工くらい見分ける目があるのでしょう。なぜか、庵野監督自身のように。

 

・矢口プランとか、ヤシオリ作戦とか

 ヤシマ作戦というより、それら全部が「海外SF作家が適当に考えた日本人名」を意識してるような気がする。ヤカモト、ヤシモト、ヤガイ……

 ヤシオリはヤマタノオロチを酔わせた酒の名前らしい。建屋冷却と神話のネーミングが合わせてあって、派手なシーンではないが情報量が多い。倒し方が地味と言われるがテーマ的にこうなるしかない。

 

・牧教授とは

 動機がゲンドウ。教授は調査を依頼されただけなので、彼がゴジラを作ったというわけではない。危険性を知っていながら放置したことが、彼の言う「好きにした」の意味か?何らかの魔改造や餌の投与をする能力は教授に無いと思う。でも船の位置と出現ポイントには関係あるよう。

 人類なんか滅んだほうが地球キレイみたいな言い分は、庵野から見た宮崎駿に近い。でももう少し人類任せにしてある。

 

・「わたしは好きにした。君らも好きにしろ」

 これが数回繰り返されるので、作品のメッセージと言っていいだろう。

 テッド・チャンの地獄とは神の不在なりにおける堕天使の台詞を思い出した。なおSF小説であって、チャンは無宗教。

 「みずから決めるがいい。それがわれわれのおこなっていることだ。おまえたちもおなじようにするがいい」

 この自己決定は信仰と対置されている。シン・ゴジラに信仰などほとんど出てこないが、他者の意思による決定については描かれている。

 アメリカや国連の意思に任せるのではなく、自分で考えて決めること。直接的には、日本にこれを推奨するのが表のテーマだ。

 しかし、もっと抽象的には、前述したゴジラへの感情移入をやめたことも大きい。ゴジラの意思に地球を任せる、みたいな展開を庵野監督は否定している。直接は言われていないが、ゴジラを積極的に「守り神」として扱うことを拒否している。そもそも<呉爾羅>は単なる荒ぶる神であって、救いの神ではない。

 神へ意思決定を任せることと、救いを期待することをやめること。なぜなら、神ですら、彼の好きにやっているからだ。なおトップをねらえ2には「あなたの人生の物語」というタイトルの回があるので庵野テッド・チャンを知っているはず。読んでないのに引用する人なのでわからないが。

 メタ的には、人類のために戦ってくれるギャレゴジや平成ゴジラを否定している。そういう意味ではエメリッヒのゴジラのほうがまだ初代に近いと思う。外見のせいで酷評されすぎている。生物だからミサイルで死ぬ。潔い。

 ギャレゴジなどは、子供の乗ったバスを(偶然)守ってくれるのが初代的でない。そんな擬人化は、たとえ偶然を装っていても要らない。ゴジラは神であっても、人間に興味がない種類の神だから。

 でも赤坂(竹野内豊)が「自然現象じゃなくて生物だから倒せる」と言ってた。これは逆に言えば自然現象は倒せないという意味。ゴジラは極めて自然現象寄りだが、まあ生物。

 

 殺せでも守れでもなく敵でも味方でもないのが「好きにしろ」なんだろうか。

 別に悪意もなく好きにしてるだけなのに悪意を読み込まれたりする。世界から味方扱いされないとやっていけないと核攻撃を容認したときの赤坂が言う。逆に相手に悪意があるかどうかをガン無視したら敵味方の二元論から抜けて好きにしろ状態になるんじゃないか。

 

・尻尾は別物

 パンフによると顔的器官で自己分裂の起点。尻尾が別の生物のように動くのは実際に別の脳があったのか。

 

・英語台詞

 みんな発音上手いと思うけどなんであんな多用するんだろう。

 

プロトンビーム

 巨神兵も初号機もゴジラも、みんなプロトンビーム(紫色)を使うようになった。ちなみにヴンダーも、初号機から直結してるので主砲が紫色。

 

宮崎駿との違い

 庵野は科学技術を肯定しまくるリベラルだと思うんだけど。海外SFでは普通。

 

・シンって何

 ツイッターでshin表記だったので罪ではないんじゃないかな。シンエヴァのほうはsinなので罪。

 

・最後の尻尾

 巨神兵の子供がそのまま逃げだすんじゃなく、日本と米国で管理されて、実験されて、兵器転用されて、巨神兵になるんでしょ。それでナウシカに無難に繋がる。首相になった赤坂に立ち向かう矢口。次回はゴジラvs巨神兵

 

バートン・フィンク

 コーエン兄弟のバートンフィンクという1991年の映画を一ヶ月ほど前に観たのでうろ覚えでテーマを解説する。

 

 詳細なあらすじは省略。 

 キーとなるのは壁紙と紙包の、紙という共通点である。この画的な類似を見落とすとよくわからないことになる。

 

 主人公のバートン・フィンクは作家で、自分こそが創作という苦悩を知っており、悲劇のまっただ中にいると思っている。そしてホテルの隣部屋のムントという太った男を、苦悩を知らない一般人として軽視し、自分の苦しみだけに耽溺し陶酔し続ける。バートンは、アル中の作家やその秘書の苦しみが、自分の苦しみより大きいとは夢にも思わない。

 終盤ムントが殺人鬼であることが判明するが、殺人の動機が一風変わっている。自分と同じように苦しんでいる人々を苦痛から解放してやっていると信じているのだ。ラストにはホテルが煉獄のように不自然に燃え始め、ムントはホテルを借りているのではなくずっと住んでいるのだと打ち明ける。

 ホテルは苦しみの象徴であり、ムントは苦痛の終生の住人だった。ムントには精神的なものはもちろん、身体的な重病さえある。苦痛ガチ勢だ。バートンは所詮、部屋を借りているだけの、苦痛に対する観光人で冷やかしに過ぎなかった。バートンはこのホテルに来るまで、あるいは来てからも、全く真の苦しみというものを知らなかった。

 ここまでは普通の解釈だが、これからは壁紙の中と外の差を考える。紙包を手にしたバートンは、急に脚本が書けるようになった。正確には紙包を机の上の見えるところに置いていることに注意したい。ホテル=壁紙が苦痛の象徴だった。しかし紙を外から見ることで、バートンは自分の苦痛を客観視出来るようになったのだ。紙包を手に入れる前は、苦痛を主観的にしか捉えられず、壁紙に囲まれ、自分が悲劇の主人公であるという感覚に囚われていた。苦痛の中にいた。苦痛を外から見ることで初めて、創作が行えるようになった。

 しかしまだバートンは成長しきっていないので、映画は終わらない。バートンが主観的に体験し、客観的に理解した苦痛はあくまで自分自身の苦痛にすぎない。秘書の女性やムントの苦痛など意識の外だ。ムントが殺すのは本当に苦しんでいる人間だけである。しかし、しっかり苦しんだはずのバートンが殺すに値しないのは何故か。それは、他人の苦しみまで理解できる人間が本当に苦しむので、そうなって初めてムントのターゲットとして認められるからだ。よって秘書もムントが殺したとしてもおかしくない。ムント自らも、解放の対象条件を満たしているので、燃え盛るホテルに消えていく。

 燃えてしまったホテルを後にして、バートンは脚本を依頼主に届ける。バートンが体験した苦痛は客観的とはいえ自分の苦痛だけだったので、傑作は書けなかった。依頼主という他人にはバートン固有の苦痛は伝わらなかった。しかし一応スランプは脱出できた。

 ラストシーンではバートンが紙包だけを携えて海辺にいる。この、謎の女性がいる海辺の風景はホテルの壁にかけてあった絵と同じだ。ホテルにいた頃のその絵は、苦痛の中での逃避を表していた。ホテルから出てしまったバートンの人生は苦痛の無い状態である。しかしバートンは、やろうと思えば紙包を開けることも出来る。苦痛をもう一度見つめることもできる。今度は、紙包に入っているのは自分の苦痛だけではない。秘書の頭という罪や、他人の苦痛まで入っているかもしれない。その苦痛に囚われてしまうなら、包紙は壁紙へ、箱は部屋へと展開し、ムントがやってくる。それまでは、紙包を糧にして脚本が書けるかもしれない。

 

 

今更エヴァ新劇のテーマを全部繋げてみた

 

 キーワードを介して繋がってきた気がする。

 そのキーワードは自由意志と罪。

 自由意志はエヴァの話題では聞きなれない単語だが、実は深く関係している。

 

 まず旧はネルフ(nerv=神経)とゼーレ(seele=魂)

 神経は脳とすれば物質、魂はそのまま魂なので、心身二元論だった。下手すると古臭い考え方だが、魂のSF的な理屈はなんとでもなる。

 

 そして新劇ではそこにヴィレ(wille=意志)が加わった。意志という言葉は劇中でも何度か出てくるので、意識されていることは間違いない。というか名前を作者がつけるとき意味を考えずにつけるはずがない。

 意志は自由意志(free will)にまで意味を敷衍することもできる。また、意志は劇中の異なる文脈で情報と呼ばれたことが二回ある。

 

 Qでゼーレが退場し、魂の存在は否定された。カヲルは、魂が消えて情報が残ると言った(これには特定キャラの魂を指してもいるが)。もはや世界には、ネルフ=物質と、ヴィレ=情報しかないのだ。ループという決定論に自由意志は勝てるのか。その二つの対決の構図になっている。

 

 ここで、「いくら表面的なキーワードが揃ったからと言って、エヴァの物語全体としては決定論vs自由意志なんてテーマを持っていない」と思われるかもしれない。

 しかし、自由意志や決定論の議論と罪とは深い関係にある。罪=sin=シンは次回作の題名になるほどのメインテーマだ。Qで宣告されたシンジの罪は、自由意志の問題と切り離せない。キリスト教的にも、神がアダムに原罪を与えるということは、自由意志を認めたことになるという説がある。自由意志と罪は表裏一体だ。

 これらは、意志の名を冠した組織で、罪を宣告され、次回作がsinという状況を見た時点で気付くべきだったのだ。いつまでも旧のように、ヲタ批判だとかにモチーフを探すべきでは無かった。(庵野も今回のテーマはヲタ批判を全面には出さないと言っている)

 

 また、決定論的な死海文書の予言を持つゼーレ、人の行動を予測するのが癖のゲンドウは、決定論の化身のような存在だ。彼らを罰と自由意志を重んじるであろうヴィレが倒せるのか。(デネットのような、決定論があるからこそ自由意志が成立するという考え方もあるが)

 ループ自体も決定論的だ。何度やっても同じ悲劇を繰り返してしまう。ループから脱却するのが目的になるだろう。

 

 と考えてきたが、作者はこんなことは全く考えていないかもしれない。ただ、経路は違っても結果が同じなら、同じ方式を取っていけば似たようなものを作れてしまうかもしれない。

 それに、少ない情報量しか無いように見える映像作品でも、作家は意外と大量のテクストを用意しているものだ。ANIMAはそういうものをやろうと思えば用意できるというアピールだったように思う。またこれらが全ておそらく衒学であることは否定しない。衒学とSFの違いは問題としない。

 

 

アニメーター見本市でシンエヴァらしき映像が公開 あと予想


until You come to me. - 日本アニメ(ーター)見本市

 

シンエヴァの予告とも言える映像が出ました。

やっぱりANIMA的です。

 

■ 新劇とANIMAは基本設定をかなり共有している

 ANIMAでは補完計画を失敗するたびに地球の歴史が繰り返すという設定です。その際、月と地球の役割が入れ替わる形で再構成されます。rebuildは、作品の再構成でもあり、文字通り地球の再構成のことでもあります。

 今回のuntil you come to meでは、月に地球の物質が吸い上げられる様子まで描かれています。Qでは、月が大きいこと、大気がありそうということしかわかりませんでしたが、これで新劇エヴァが非常にANIMA設定に近いことがはっきりしました。完全に物質が移動すると、月が新しい地球になります。

 生命の歴史といっても数十億年ではなく、短縮された数千年からの繰り返しになるという設定だったと思います。貞エヴァで量産機の遺跡が残っているのは、入れ替えを無くしたヴァージョンでの再構築と考えれば筋が通らないこともありません。

 Qのパンフレットで石田彰が言うサイクルとは、こういった大きな歴史の循環のことです。短い時間ループのことではないので、都合のいいループ展開は無いので安心してください。

 またANIMAではシンジが初号機と心臓を共有しています。Qでは同化していたと言われていましたが今回の映像はそれも連想させます。

 

 シンエヴァでは本当に再構成が起こってしまうのか?月が新しい地球になり、人類はそこに移住するのか、それとも補完計画を食い止めて地球にとどまるのか。

 どちらも結末としては面白いと思いますが、Qで赤くなった格納庫に花が咲いていたのはなんとか戻そうとする伏線であるようにも見えます。ああいう息吹があるのに月に移住してしまうのは不自然です。

 

 ANIMAでは、そういうサイクルを制御しているのは月と地球にある対のモノリスです。ゼーレはその進行役です。新劇にはそういう石が無いので黒き月(大きいキノコみたいなやつ)あたりが媒介しているかもしれません。

 ANIMAには、大量のエヴァによる大戦の後という遺跡が登場します。それは前の世界の意志の痕跡だとかいう話ですが、そこで巨大なアスカ型エヴァを初号機が追い回す話が見どころです。

 Qのプラグスーツはやけに伸縮性がありそうなのは巨大化のためじゃないかとか、ここまで共通点があるなら後は登場キャラの巨大化・エヴァ化しかないようです。巨大な女型エヴァというのは山下いくとが何度か描いていたアイデアです。新劇ではエヴァの素体=中身が見えたことがありません。唯一出た手だけは、やけに白くて人間的です。シンではそういうエヴァサイズの巨大キャラの乱闘が見られるはずです。 

 

■until You come to meというタイトル

 サブタイトルのyouは大体主人公を指してきたのですが、その場合リリスの元に行くなら死ぬ感じがしますね。ただ、来るまで見守っているというなら貞エヴァのラストのレイの台詞と全く同じです。そこまで特異なタイトルではありません。

 

■(not)の意味の謎おさらい

 ついでに、まだよく知られていないと思うので、サブタイトルの(not)の意味のおさらいです。

 TVシリーズからの伝統で、序破Qも映画の中盤に黒地に白英字のアイキャッチが入ります。ここを境にサブタイトルのテーマが反転します。

 

序は孤独に放浪するシンジ→直後アイキャッチ→ミサト「あなたは一人じゃない」

you are alone → you are (not) alone

破は順調な前半、加持との会話で成長するシンジ→直後アイキャッチ→後半の失敗

you can advance  → you can (not) advance

Qはやり直しを提案したカヲル→直後アイキャッチ→やり直せないことが発覚

you can redo  →  you can (not) redo

 

 前半は(not)が見えない形で始まり、アイキャッチを境に(not)があるストーリーであることが判明するという仕組みです。それが、後半を見ても(not)があるかどうか、具体的にはシンジが進歩しているかどうかの議論がわかれるという効果ももたらしています。これだけでも、ファン層を揺さぶる目的を明確に持って作られているのがわかります。

 アナと雪の女王でも、スタッフはトロールを非難するべきと思って作っているのに、映像では楽しげとも不気味とも取れる皮肉な見せ方をしています。これを、そのまま楽しげな歌と思って聴いてしまう人も実際にいるのです。

 このように意図的に、露骨にテーマに二重性を持たせるのが流行しています。流行には乗るべきです。とはいえそれを序の段階から用意していたというのがエヴァのまともなところです。

ハンスもゲイ【アナと雪の女王】

映画 アナと雪の女王

◆トロールは善意の馬鹿

 トロールを肯定してしまっている感想が多いが、この作品でのトロールは文字通り石頭の、保守的な田舎者の喩えとして描かれている。トロールは真実の愛と連呼しながらもちろんそれを誤解している。愛さえあればという曲の原題 fixer-upperは「修理が必要」という意味で、トロールはアナやエルサをFIX=矯正しようとしている。誰もが完璧ではないと和訳では言いながらも、実はマイノリティを暗に病気のように治療すべきものだと言っている。しかもそこに悪意が全くない。原詩と和訳は180度変わっているとも言えるが、和訳でもお節介さは感じることができる。

 トロールがエルサの能力を治療の名目で封殺したことが全ての元凶なのに、彼らをあえて悪役にせず、何の罰も与えなかった作り方は非常に上手い。トロールの行動は悪意ではなく、単純に無知さからくる過ちだからだ。

 作品はトロールを断罪しないが、教育もしない。彼らにもまた無知でいる権利があるからだ。

  

◆ハンス王子もゲイ

 サウナ屋がゲイという説は有名だが、ハンス王子もゲイだとは考えられないだろうか。

 LGBTを弾圧するマジョリティの役割を担っているのはウェーゼルトン公爵とその軍隊だし、弾圧はせず不理解なだけのマジョリティはトロールだが、残ったハンスは意外にもマジョリティ側ではない。ハンス自身もマイノリティだから、アナとそっくりという歌が生まれるのだ。

 ハンスはゲイだからアナとキスは出来ないし、それが原因で、自分の家から存在しないものとして厄介払いされたのだろう。そういう意味では、結婚せずに権力を得るために他人の王家を乗っ取るのは理にかなっている。

 だからハンスは本気で冬が去ることを望むと発言している。全てが演技だが、そこだけは本心だったはずだ。マイノリティに厳しくない世界を望んでいる。ハンスはいわば、完全に悪堕ちしてしまった場合のエルサの姿なのは言うまでもない。

 

Let it goについて

 この曲について今更語ることはないが、中盤の苦難の曲でありながらエンディング曲にもなるということなので、この諦めに似た歌詞が結論と言っていいだろう。相互理解とは無知との戦いなのに、無知なトロールを放置しているのだから、言いたいやつには言わせておけ的な(haters gonna hate的な)諦観こそが希望なのだという結論だろう。

新劇エヴァにおける第三勢力 2

エヴァ

◆第三のフィールド

旧で二元論的であったものに、第三の要素が加わった事例は、前回の記事で書いた<意志>だけにとどまりません。

 

旧でおなじみの<ATフィールド>と<アンチATフィールド>

この2つに加えて、新劇ではもう一つの「フィールド」が登場したと、当ブログは考えています。

それを便宜的に、<アダムスのフィールド(仮)>と呼ぶことにします。

 

結論から先にまとめておきます。

・13号機は<アダムスのフィールド>を持ち、それによって<リリスの結界>を破ることが出来るが、<ATフィールド>に対しては無力である

・<リリスの結界>は強力なアンチATフィールドが物質化したもの

・<アダムスのフィールド>はアンチATFに勝ち、アンチATFはATFに勝ち、ATFは<アダムスのフィールド>に勝つ、ジャンケンのような三すくみの構図になってい る

ロンギヌスの槍はアンチATFを持つのは既知だが、カシウスの槍は<アダムスのフィールド>を持つ

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以下で詳しく見ていきます

 

◆13号機だけが持つ特殊なフィールド

既にQでは<リリスの結界>や<L結界>なるものが登場しており、ここではそれを同じ種類のものとして扱います。LはLilithの頭文字と思われます。

セントラルドグマを蓋のように塞いだ<リリスの結界>、これを破ったものは14年の間おらず、第13号機だけが可能でした。カヲルによると「これを突破するための13号機」であり、13号機の特殊性が伺われます。もちろんこの結界は、どんな強力なATFでも破れなかったことを意味します。

 

では13号機の、他の兵器達には無い固有の特徴はなんなのかというと

・ATフィールドが無い

・アダムスの生き残りと呼ばれる

この2つを特筆すべきでしょう。

紛らわしいですが、ダブルエントリーは直接は関係ありません。槍を二本所持するためのものであり、蓋を突破するときは単に二人の呼吸を合わせて<アダムスのフィールド>の出力を上げただけでしょう。それに、パイロットが二人というのは別段特殊なものではないのです。旧弐号機や破のボツ案で複座操縦自体はなされています。

 

13号機はこのように特殊な珍しいフィールドを持ちながら、代わりにATフィールドを持たないので物理攻撃には無防備で、さらにヴンダーのATフィールドに封じ込められ無力化されようとしていました。

半面、8号機のアンチATF弾が効かないどころか吸収するという現象が見られます。3すくみでは<アダムスのフィールド>はアンチATFには強く、無力化することができるから理屈は通ります。

ATFには弱く、アンチATFには強い13号機が突破できるリリスの結界 リリスの結界の正体も自ずと見えてきます。

 

 

 ◆リリスの結界(L結界)=アンチATフィールドの物質化

次にリリスの結界をアンチATFと同一視していいのかという問題ですが、リリスの結界(L結界)はすでに多くの点でアンチATF的性質を見せています。破のラストで、レイを助け出そうとシンジが破ろうとした青い水面のような障壁もリリスの結界であるはずです。ドグマのものと色が全く同じです。

・破ラストでの白いレイ=旧劇の巨大リリス(アンチATFの物質化)を連想させる

・青い結界に飛び込んで救出中のシンジの皮膚が剥がれるような描写=人間のATFへのダメージ

・L結界密度が濃いとリリン(人間)が立ち入れない これは人間のATFを消失させるから

 

◆槍について

ロンギヌスの槍がアンチATFを帯び、デストルドーの象徴であったのは旧エヴァにおいて既知の設定ですが、新登場したカシウスの槍も何か同等に強力な性質を持っていなければならないはずです。

カシウスの槍が使われたのは破ラストの初号機に対してだけでしたが、ここで初号機はインパクトに伴ってATFでなくアンチATFを展開したのかもしれません。

カシウスの槍とは<アダムスのフィールド>を持つがゆえに、使徒やエヴァのATFに対しては無力であり、カヲルはインパクトが開始されてデストルドーが放射されたらそれを止めるために待機していたのです。

ここで生じる疑問は、なぜ初号機がアンチATFを持っていたかということですが、それはリリスの魂であるレイを吸収したからに他なりません。レイ吸収以降の初号機はヴンダーの主機となった後でも、L結界としてアンチATFを発生させ続けています。初号機はATFとアンチATFの両方を持つ機体になってしまったわけです。

 

◆最後に

旧では、アンチATFにやられるばかりのATF、つまりアンチATF>ATFという上下関係しかなかったのですが、新劇で第三のフィールドが現れたことで一気に関係が動的になったように思われます。

また、この3つのフィールドの三すくみ構図はそのまま、アダム・リリス・人類という三者の対立構造をも模しているかもしれません。

 

新劇エヴァにおける第三勢力

エヴァ

ゼーレ、ネルフ、ヴィレはそれぞれドイツ語で

ゼーレ=seele=魂

ネルフ=nerv=脳

ヴィレ=wille=意志

と訳することができます。

 

旧作では、ゼーレとネルフ、つまり<魂><脳(物理的身体)>二元論的な物語でした。

新劇ではそこに第三の勢力、<ヴィレ=意志>が登場したわけです。

この<意志>は、陣営レベルでの対立構造としてではなく、新劇の世界において魂のように扱われるデータとして実際に存在しています。

魂という言葉はよく出てきますが、意志というのは耳慣れない用語かもしれません。しかしすでにキャラが台詞で<意志>が存在すると明言してくれています。

 

カヲル「魂が消えても、願いと呪いはこの世界に残る。意志は情報として世界を伝い、変えていく。いつか自分自身のことも書き換えていくんだ。」

 
冬月「結果、ユイ君はここで消え、彼女の情報だけが綾波シリーズに残された。」
 
加持「だが最後はその父親に助けられた。生き残るっていうのは、いろんな意味を持つ。死んだ人の犠牲を受け止め、意思を受け継がなきゃいけない。」
 
カヲルの台詞が最も「意志」という存在について詳細に説明してくれているので、いわば意志についての公理と言っても過言ではありません。
・意志は魂や肉体の死後も残る。
・意志は情報と言い換える事もできる。
・意志は願いや呪いの形を取り、コアに保存されることで、死後も物理世界に影響を及ぼす。
 
意志という要素によって、Q最大の謎用語「アダムスの器」の正体にも仮説を立てることができます。アダムスの器に入るのがアダムスの魂というのはどうも、ありきたりだし不自然です。魂を入れるならわざわざ器と言わず、肉体と呼ぶべきです。おそらく、器にはアダムスの意志が入るのです。意志というのは、肉体や魂が死んでいてもいいわけです。マリが「アダムスの生き残り」と言った以上、既にいくつかのアダムスは死んでいることになります。アダムスの死後の意志を保存しておくことができる媒体が、アダムスの器なのでしょう。
 
また、mark9はアダムスの器、意志の器であるがために、ヴィレ=意志の象徴であるヴンダーの本来の主であるわけです。
 
・魂の容れ物が脳(身体)
・意志の容れ物が器(コア)
 
 
二元論の話に戻りますが、旧作では魂が肉体を離れて存在できたり、移し替えられたり謎の技術が使われていました。ですが、そこまで発展したオカルト的超技術でも魂の複製だけは不可能でした。だからレイ=リリスの魂は常に一人でした。もちろん、魂はれっきとした物質なので情報のようにコピーすれば済むものではないのです。
一方、新劇ではユイの情報はアヤナミ「シリーズ」に複数存在できます。情報はコピーされ、偏在できるのです。破の綾波レイもまた、初号機に情報として保存されています。
 
魂の宿るのは脳ですが、意志が宿るのはコアなわけです。ここで問題になるのは、大地のコア化=地球自体がひとつのコアになった場合、そこに宿る意志は誰のものかということです。EOEや貞本エヴァの流れでいくと、ありきたりですが、まずユイかレイでしょう。Qで赤い大地の歯、12使徒の胎児のような形態 これらは胎動する地球のイメージと重なります。
 
新劇におけるインパクトは段階を踏んで地球をコア化させる工程でしかありません。一つのインパクトで完成されるものではなく、必要な段階が4つあるというだけです。
 
・ファーストインパクト 
黒き月が穿孔することによって、地球内部にコアができる(現実の惑星にもコアはあり、それとの言葉遊びになる)
海がコア化する(LCLなら生物も生息できるはず、それができないのは液状コアだから。)
地表がコア化する(地下はすでにコア化済み これで物理的なコア化は完了 後は大気くらい)
・フォースインパクト=ファイナルインパクト 
コアに意志を宿せば終わり or 大気のコア化